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現場からの声〜monitor reports 

モニターレポートが届きました!

・1/20 クラシックの未知なる世界
    【1/20:「暮らしへのクラシック~音楽の新しい味わいかた」レポート】

・1/22 つながりを感じる
    【1/22:「グリーフタイム」レポート】

・1/30 俳句映像を楽しむ
    【1/30:「remoscope workshop in 天王寺七坂」のレポート】

・1/14 観劇レポート
    【1/14:満月動物園『太陽物語』のレポート】

・1/22 「死」や「別れ」と向き合う、いい時間
    【1/22:「グリーフタイム」のレポート】

・1/20 背景を知りながら聴く
    【1/20:「暮らしへのクラシック」のレポート】

・1/18 共感による現場主義の営み
    【1/18:「お寺MEETING」のレポート】
 
・1/18 「諸法無我」との出会い
    【1/18:「お寺MEETING」のレポート】

・1/17 自分と向かい合う時間~
    【1/17 箱庭小庭~自己との対話のレポート】

・1/17 たった20分で
    【1/17 箱庭小庭~自己との対話のレポート】

・1/17 綿が勝手に伸びていく
    【1/17:「16年目の1.17」のレポート】

・1/17 “当たり前”に甘んじている
    【1/17:「16年目の1.17」のレポート】

・1/13 應典院が変身・・・
    【会場空間構成「ひび・たえまなく・いとなみ・・・」レポート】

・1/13 シアトリカル應典院での観劇久しぶり
    【1/16:満月動物園「太陽物語」のレポート】

・1/13 チンプンカンプンもまた楽し
    【1/13:耕読会in應典院のレポート】



2010/2011のモニターレポート

にて更新中です。

俳句映像を楽しむ【1/30 「remoscope workshop in 天王寺七坂」のレポート】

“NPO法人remo/記録と表現とメディアのための組織”が、「オープン台地 in OSAKA -上町台地の生活鑑賞ツアーコレクション-」参加プログラムの一環として開催した「remoscope workshop in 天王寺七坂」。

remoscopeとはremoが考案した映像ワークショップで、制作された映像作品をみんなで鑑賞し句会のように楽しむもの。
その手法は、「固定カメラ/無音/無加工/無編集/ズーム無し/最長1分」の6つのリュミエール・ルールと呼ばれるルールに則って、應典院付近の風景を好きな場所・アングルで各々の視点で切り取ってカメラに収めていきます。

始まる前は素人がカメラワークなしで撮った映像など面白いのだろうか・・・と疑心暗鬼でしたが、いざ撮り出すとこれが面白い。
1分と決められたことで、まずじっと動かないカメラに堪えられる「絵になる場所」を探す。そして好きなアングルに合わせ固定された画面をじっとみていると・・・思いも掛けない映像(出来事)が飛び込んできたり、反対に狙ったような映像にならなかったり。
この「思いがけなさ」と「思い通りにいかなさ」故、どんどんと引き込まれて、あっという間に午前の部終了。
部屋に戻った参加者は一番のお気に入りを選んでお互いに発表です。

音もない。
カメラワークもない。
編集もない。
たった1分。

「何か起こるのでないか」と見つめる1分は「何か起こってもドラマ」、「何も起こらなくてもドラマ」でありました。
そして、カメラというフィルターを通すだけで随分と日常見ているものが様変わりして見えることを再認識しました。


日常であることは実はとてもドラマティックなことなのかもしれない。
などとほくそ笑みたくなる、remoscope workshop in 天王寺七坂でした。

つながりを感じる【1/22:「グリーフタイム」レポート】

薄暗くセッティングされた部屋に集まり、グリーフタイムが始まります。
参加者は同じ机を囲むも、名乗らない。
「名乗らないことから始めましょう」と臨床心理士の宮原俊也さん。



グリーフはそれぞれユニークです。
ユニークとは面白いということではなく、個性があるということです。
そして失った悲しみだけでなく、失うものへとむかうことを自覚するのもグリーフです。

と、ゆったりとしたペースで話される宮原さんの言葉を聞きながら、自分の中のグリーフとゆっくり向かい合って行きます。
まずはグリーフカラーと名付けられたワーク。
好きな色の折り紙・クレヨン・色鉛筆などを使って10センチ四方の白い四角を埋めます。そして何かメッセージを書きたければ書き添えます。
それが終わるとフィールドウォッチングへ。
部屋の外へでて、一人一人それぞれの場所で、各々のペースでいくつかの用意されたクエスチョンに答えます。

グリーフの対象である人がどんな人だったか?
「私」と似ているところは?

そして歩きながら風景の中から親しみを感じるものや懐かしいもの、その理由を書きとめていきます。その時間はすべて「私」と「失ったもの」とのつながりを感じる時間です。
ゆっくりとゆっくりと、つながりが見えてきて、そして自分の大切にしたいものが見えてきます。
この間2時間。

ワークを終えた人から部屋へ戻り、ここで初めての自己紹介。
誰も誰かの話を遮らない、否定しない、訥々と「おもい」を語ります。ただお互いがそこに居るという空間を共有します。何かを深く語り合う訳でもないのに、一人で「グリーフ」に向き合うよりも、同じ時間に、同じ空間で、他の人も向き合っているということが大切なのだと感じます。

グリーフタイムというとなにか大袈裟なイメージを持つ人もいるでしょう。
でもここで流れているのは、五感で感じる大切なものとのつながりを感じる時間なのです。



・グリーフタイムは奇数月第第4土曜に應典院にて開催されています。
 今回の様なフィールドウォッチング等はありませんが、それぞれが
 グリーフに向き合う時間を大切にしています。

クラシックの未知なる世界 【1/20:「暮らしへのクラシック~音楽の新しい味わいかた」レポート】

「クラシックってどんなイメージですか?」
という秋田光軌さんの問いかけから始まった“暮らしへのクラシック”。
ヒーリング、癒し、高尚な趣味、どれも一緒・・・

「クラシックにもジャンルがあるので、ポップスから好きなアーティストを選ぶように好きな作曲家を選んだらいいのでは」

とクラシックにおける形式を例にあげながら、入口を紐解きます。
例えば「十二音平均律」。これはいわゆる「ドレミファソラシド」で、ポップスも同じ音階でできているけど、クラシックは聴き方が違う。ソナタ形式など、交響曲にはルールがあり、それは系統づけられたコース料理のようなもの。だから「構造を理解して聴く」ことが大事。
と、たくさんの例を出して、時には恋愛に例えてクラシックの構造を説明する秋田さん。
さらに楽譜・演奏によって同じ曲でも変わるということ体感するために、ベートーベンの「運命」を実際に聴き比べ。その演奏にじっと耳を傾け、頷く参加者の方々はすでにクラシックファンにも見えます。

また、クラシックにおける新しい流れと楽しみ方として、ネット上にコンサートホールを作ったベルリンフィルを紹介。有料であるものの、配信されるコンサート映像は高音質・高画質で自宅に居ながらにして会場にいるような気分を味わえるといいます。しかもネット社会らしく、数日前のコンサートが即座にアップされるという迅速さ。これによりクラシックファンが拡大する・・・かもしれません。


日ごろ敷居が高いような気がしてしまうクラシック鑑賞。しかし、こうして成り立ちや構造を分かり易い言葉や身近なものに例えて説明されると興味も関心も自ずと湧いてきます。
「クラシックには400~500年の積み上げた歴史があるから必ず楽しめる」
という秋田さんの言葉に騙されて、次のやすみにはクラシック鑑賞といきましょうか。

「死」や「別れ」と向き合う、いい時間

今回、グリーフタイムに参加させていただきました。
議論するのではなく、自分のグリーフカラーを小さな紙に表現したり、2時間ひとりでフィールドウォッチングをしたり。あくまでもひとりで自分と向き合い、心地よい沈黙の中で参加者の皆さんと空間を共有することができました。

「グリーフ」という言葉すら知らなかった私ですが、このワークを通じて、亡くなった人やモノを想う時間の大切さや、いま生きる自分と人とのつながりについて、考えるきっかけを与えられた気がしています。

なくなったモノだけではなく、なくなる過程も含めてグリーフだそうです。なくなろうとしているモノとのつながりに気付き、想うことができれば、何か行動を起こせるかもしれません。自分と人とはつながっているから、だから想い合い、助け合い、その人の立場に立って苦しみや悲しみを共感できる。
そしてそれがボランティアやNPOみたいな「形」になれば、またそれが共感を呼んで、輪が広がっていくのだと思います。

休日にひとりで「死」や「別れ」と向き合う、という機会はなかなかないので、とても大切な、いい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
臨床心理士の宮原さんををはじめ、同じ空間でグリーフタイムを過ごした皆さんとも、深い部分でつながれた気がします。

ひとりで過ごす、大切な人との大切な時間でした。


松隈まりえ(同志社大学政策学部4回生)

先入観よりも適度な知識を【1/20:「暮らしへのクラシック」のレポート】

クラシック音楽を先入観ではなく適切な知識をもって聴くことによって、より楽しむことができる。

クラシック音楽ファンであるナビゲーターの秋田光軌さんから、曲の構造について、楽譜と演奏について、生まれつつある新しい動きについてなどクラシック音楽にまつわるさまざまなお話を聞きました。

ソナタ形式を恋愛に例えて説明をしてくださるなど、お話はどれも分かり易く面白いものばかりでした。

クラシック音楽を愛好している参加者だけでなく、あまりクラシック音楽に馴染みがないという参加者の方もいらっしゃいましたが、どちらの立場でも楽しめる時間だったと思います。

「幸せの形や人生を楽しむ方法はいろいろだから、クラシック音楽を絶対愛好するべきだとは思わない。
ただ今回のイベントがクラシック音楽を楽しむきっかけのひとつになれば。」

という秋田さんの言葉が心に響きました。

クラシック音楽に触れる方法のひとつとして、
こういったクラシック音楽ファンがクラシック音楽の楽しみを語るようなイベントが増えるといいなと思います。


これさわあやこ(古音Link代表)

背景を知りながら聴く【1/20・「暮らしへのクラシック」のレポート】

 後半の1時間のみの参加となりましたが、自分の好きなクラシックについて、色々な話が聞けてよかったです。
 音楽をただ聴くだけでなく、その作曲家についてや時代背景を知りながら聴くとまた違った楽しみ方が出来そうです。
 ありがとうございました。
 ※ちなみに私は、マーラーの交響曲第5番が大好きです。


安東大輔(パドマ幼稚園)

共感による現場主義の営み【1/18:「お寺MEETING」のレポート】

 宗教を信じる者にとって、その信仰のなかで如何に救われるか、すなわち救済論(soteriology)が重要となる。そのための方法が、念仏、題目など様々な宗教的行為・儀礼の実践である。では、宗教を信じない者は救いを求めていないのだろうか。否、娑婆世界での苦、難儀から逃れようと、幸せを求めている。社会構造の変化により流動性の高い社会となった今、自己責任のもと、苦からの脱却が個人単位で問われる時代。無縁社会とも言われるつながりが無い一個人の苦に対峙するには、人間力が問われる。そのような人間力がある宗教者もあれば、そこを避けて居心地のよい世界にとどまる宗教者もいる。今回のお二人は、ともに娑婆世界の苦に向き合う生き方をする。社会正義から立ち上がるヒーローではなく、縁あって現場を見て、知った。同じ社会に生きる人間として、その現実に対峙したのだ。それは「共感による現場主義の営み」だ。
 混迷の時代、貧困、病気、対人関係の悩み、心の病い、孤独からの救いを求めている人が多数いる。そして、縁あって伝統仏教、神道、キリスト教、新宗教、あるいはNPO、自助グループなどで苦から幸せへの道を探求する。彼ら、彼女らの苦から救いの叫び、その苦は、宗教者にとって自らの人間力をさらに磨きあげる砥石であろうか。そのような体験主義はNPOのスタッフ、ボランティア、宗教者に通低する、人格、人間力を陶冶する生き方の姿勢だ。
 信仰に加え、現場での体験の積み重ねが、その人をして、まわりの人に安心感を与える社会的人間を生み出す。それは、何か遠いところにある聖人ではなく、人間味ある、社会に生き得る宗教者だ。見えない形かもしれないが、これも社会に貢献する一人の人間としての宗教者の姿ではないだろうか。そこに、次代を担う青少年のロールモデルを期待するのは私一人ではないだろう。


(稲場圭信・大阪大学大学院人間科学研究科准教授)

「諸法無我」との出会い【1/18:「お寺MEETING」のレポート】

 多くの方が参加され、熱気のムンムンの中、その熱気をある意味、冷ましたのが、ひとさじの会事務局長の吉水岳彦さんのたたずまいでした。
 立ち居振る舞い、語り口に何ともいえない厳粛な気持ちになりました。
 吉水さんの「ひとさじの会」は、浄土宗僧侶が設立したお念仏の信仰を持って社会的弱者の支援を行う団体です。生活困窮者の葬送支援や炊き出し夜回りなどを中心に活動をしておられます。
 特に印象に残ったのは、2007年末、葬送支援の「お墓プロジェクト」が、もやいサロン「こもれび荘」中で行われ、そこである元ホームレスの男性が 「路上で生活するようになって、一度あらゆる縁を立ってしまった。しかしもやいの活動のおかげでアパート暮らしに戻り、新しい仲間も出来た。自分が死んだ時、この親しい仲間たちと一緒のところに往くんだと思えたら、僕は残りの人生をもっとしっかり生きられるように思う」と語られたそうです。
 無常な世の中であるが、もしもの時、本当に大切な人と必ず同じところで再び会えると約束してもらえるならば、これほど心強いものはないでしょう。
 それのような役目を「お墓」が持っているのですと吉水さんは語られました。
 また「諸法無我」といって、同じ世を共に生きている限り、自分と無関係なものなど一つもない。それはわたしたちが相互にかかわり合わなければ生きていけないことを示すだけでなく、社会における困難な問題をわがことと直視すべきことを教えてくださっている、という言葉に感銘を受けました。
 今日は吉水さんに出会えて幸せな気持ちになった。「人格」というのは大切な要素だと思いました。
 慈しみに満ちた社会をめざして、ともに活動したいと思いました。


(浦嶋偉晃・應典院寺町倶楽部会員)

自分と向かい合う時間 【1/17:箱庭小庭~自己との対話のレポート】

箱庭とは、箱庭療法といわれ、一般的には治療を目的としたものとして認識されていますが、コモンズフェスタでは「日常をより良く生きるためのツール」として箱庭を体験することができます。



木枠・青い内塗・砂

この中に15分間で自分の世界をつくり上げていきます。
「この時間は誰かと喋らないでください」
との約束だけで、あとは用意された木や人形、動物、橋、乗り物、家、石、仏像…たくさんのおもちゃの中から自由に選んで箱の中に置いていきます。

始めはどうしてよいか分からず「ただ、なんとなく」置いていきます。
与えられた 幅70cm程の箱がとても大きく感じ、戸惑いつつすすめていくと、突然に、自分でも意識していなかったストーリーが目の前の箱庭に出現しました。
あとは、「ただ、思うままに」手をすすめる内にあっという間に15分が終了。
そこには今日しか、今しか作り出せない世界が出来上がっていました。



その後セルフヘルプグループの方とお話をしながら作られた箱庭の向こうに見え隠れする「無意識」を探る時間が設けられます。

「これはなんでしょうね」という問いに応えるというやり取りを繰り返すうちに、語る言葉を通して、自分の中で曖昧だった「ストーリー」が形作られていきます。

どうやら私の造り出した箱庭のテーマは「生と死」。
阪神大震災の16年目の今日だからこそ、だったのかもしれません。


*25日・30日(11:00~15:00)にも「箱庭小庭」を開催します。
 詳細は http://commonsfesta.blogspot.com/2011/01/17-25-30.html にて。

たった20分で【1/17:「箱庭小庭」のレポート】

 とても良い経験ができました。
 何か運動をして汗をかく訳でもなく、
 大声で歌った訳でもなく、
 たった20分と言う時間で
 すっきりストレスを解消できたように感じました。
 自分を確認できたからなのか…
 無理なくすごく集中できたからなのか…
 なんだか少し楽になった気分で
 後の時間を過ごせました。
 貴重な体験
 そして出会いをありがとうございました


(奥山容子・和歌山市在住)

綿が勝手に伸びていく【1/17:「16年目の1.17」のレポート】

 糸紡ぎ、大変良い体験をさせていただきました。
 はじめはなれず、綿をの塊を無造作につかんで引っ張るテンションはこれくらいで、つかむ力はこれくらいで、回す速度は…と、あれこれと考えながら紡ぐともいえない綿との格闘をしていたら、肩に力は言っていますよ、と一言いただき、「あ、そうなのか」、と。
 じゃあぎゃくのことをしてみようと、何も考えずに、綿の感触を楽しみ、車輪の重さを感じながら、よじれていく綿の姿に気持を任せていたら、あれよあれよと、綿が伸びていく。ああ、なんだろう、綿が勝手に伸びていく。
 紡ぐ、というのは紡がれていく姿を眺めていることなのかしら、何かしたいのに、何かしちゃうと、何にもならない…でも何かはしているんだよなあ、と、不思議な気持ちにさせられました。
 ありがとうございます。
 時間を忘れるひと時でした。


川島栄作(株式会社サンガ編集部)

“当たり前”に甘んじている【1/17:「16年目の1.17」のレポート】

 糸紡ぎを体験させていただきとても感動しました。
 綿とは、我々にとってとても身近で毎日といっていいほど肌身に触れています。
 しかし、綿というものが身近すぎて目を向ける機会があまりなかったということに気付かされました。
 いかに我々が“当たり前”に甘んじているのかとさえ考えさせられました。
 また、糸を紡ぐという作業は自己を瞑想状態にさせる事ができるのではと感じました。
 慌ただしい世の中を生きる人々にとってどこか静かに自分と向き合える場所があればいいのですが、
 今回の應典院コモンズフェスタは、まさに自分と向き合う絶好の機会であったと思います。


(岡田裕輝・同志社大学政策学部3回生)

應典院が変身・・・【会場空間構成「ひび・たえまなく・いとなみ・・・」レポート】

恒例となりました、應典院のアートとNPOの総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」が13日に開幕致しました。今年はテーマに「onとoffのスイッチ~私をひらく6つのチカラ」を掲げ、「記憶」「語り」「誓い」「場所」「型式」「身体」のそれぞれのジャンルで分けられた14のイベントを開催します。

毎年コモンズフェスタの期間中は、テーマにそった会場空間構成により應典院がその姿を変えます。今年は「ひび・たえまなく・いとなみ・・・」と題され、舞台美術作家・高島奈々さんの手によって應典院全館が「変身」しています。



 頭上には毛糸で編んだものが吊り下げられ、その合間に茶碗や箸が見えます。高島さんはその意図を『作品として、「営み」「つながり」「死に向かう」を主題に表現する。その「営み」の表現としてはまた、白い茶碗と白い箸も毛糸に埋もれており、日々生きることを選択しているという意味である。』と記しております

 ロビーの机には箸と毛糸玉が用意されており、鑑賞者が一部のオブジェに自由に毛糸を張り巡らすことができます。日常にあるものから非日常を紡ぎだす。誰かが紡いだ何かを、次の誰かがまた次へと託す・・・、展示の内容と意味が「深化」していく今年の会場空間構成。2階気づきの広場には「深化しない」真っ白な空間も広がっています。

18日という時間をかけて應典院がどのように姿を変えるのか、変身と深化を見守ります。

シアトリカル應典院での観劇久しぶり【1/16:満月動物園「太陽物語」のレポート】

シアトリカル應典院での観劇久しぶり

 満月動物園『太陽物語』、演出・脚本/戒田竜治。満月動物園はずっと前に、同じシアトリカル應典院で拝見した。旗揚げ5年以下の演劇祭の一つであったか?と思う。モノローグ集積の内面的でドラマ性はほとんどないような、かなり抽象的で若干自分に酔っているような舞台だったような記憶あり。

 出演は、河上由佳、諏訪いつみ、みず、西原希蓉美、川端優紀、横田江美、松本茜、竜崎だいち、昇竜之助。満月動物園の役者さんはこのうち3人、河上由佳さん、諏訪いつみさん(前説もした)、みずさん。
 客演のうち、横田江美さんはA級MissingLinkのこの前のお芝居でぼく的にはなじみ(いつも眠たがる看護婦いや看護師といういささか三枚目風の役どころで客演ならでは:原節子が小津映画ではなく成瀬巳喜男映画に出たときにずいぶん印象が違うというのと少し似ているかな)。

 午前11時公演というのに出かけるのが趣味になっているのかも知れない。今朝など、かなり寒いが早起きアラカン(55歳だが)にはぴったりの時間帯。これで、アイホールの燐光群や関西芸術座に続いて、最近での朝公演(amマチネ、あるいは、マチネならぬ、マタン公演とでもいってもいいかな?)に興味あり。そして、若者の劇団でどれぐらい入るのかも興味があった(実際なかなかいい感じで客席が埋まり、やはり20〜30歳代中心。すこし遅れる人もいたが)。

 ぼくの大好きなお葬式シーンがあって、そこがお寺というのもなかなか興味深いはじまり。
 なにせ、ここ應典院は、大蓮寺があるからだけれど、お葬式をしないお寺として、演劇はじめいま生きている人と向かい合う場として再建されたからだ。
 さらに、お坊さんのいない葬式(人前葬送)であり、家族葬であるというのが、まあ個人的にもうれしい限りの題材である。

 ただ、家族といってもかなり独特の家族であって、通り魔日向(諏訪いつみ)に刺された暁(諏訪いつみが二役)と同じ児童養護施設で5年間だけ暮した4人だけのお葬式である。あとで、そこに私立探偵を名乗る濱マリー(西原希蓉美)が来て、その姉(おかあちゃん先生!=川端優紀さん)との関係が浮かび上がるとしても。あとで森の中の児童養護施設の謎が説かれていく(浦沢直樹マンガ「モンスター」を少し連想したな。)

 ぼくはてっきり、この殺された暁の死の謎は謎として、その場に居合わせた4人のいまを丹念に描くのかなあと思ってしまったが(まあ、そうなれば、ジャブサー〔事務局注:劇団ジャブジャブサーキット〕のはせひろいちさんとか静かな演劇風対話劇になってしまうからあとで思えば違うのは当たり前なのだが、それがまあぼくの好みなのも確かなので)、そうではなく、マッドサイエンティストに翻弄されたこどもたちのじぶんって何だろう的な展開(昨夜観た『非実在少女のてるちゃん』つながりに自分の目がなっているかからかもしれないが、マンガやアニメがよく扱うSF的モチーフ)…

 お芝居の特色は、高い天井を生かした垂直的な何もない舞台での朗唱とカラオケシャウト(西原希蓉美さんがマイクで歌う)。一見無意味なぐるぐる踊り。でも、これが後半のハーハーする鼓動と一体化へとつながるのではあるが、ちょっと、近い席にいたので、些かひき気味ながら、こういうのがけっこう大阪の舞台ではあるよなあ、とか思っている。

 あとで、山口さんにブログにアップしてもいいか?というお話があり快諾し、写真を戒田竜治さんと撮ってもらう。戒田さんと話しつつ、今回の作品はずいぶん社会というか、そこまで具体的ではないが、少なくとも、他者への意識をもった構造であったことを確認した。

 すなわち、他者の他者としての自分という反省的自己意識を踏まえつつも、シュールな設定によって、ひとひねりすることで、もうひとつの自分探し、あるいは、新しい自分のための様々な自分殺しとして提示したものだと思った。

 ただ、他者との出会いによって「あみだくじ」のように隣の道に偶然に行ってしまうドラマというような(by 鷲田清一さんがこの前言っていた比ゆ)、開かれた自己の変容というタイプではないことも確かである。

 そういう意味では、異質な他者として社会に開かれるドラマではなく、いまだ身内に収斂する自己意識(それが何人の自分になっているにしても)と仲間=家族関係にからめとられているのでは?と指摘することもできるのかも知れない。

 が、逆に、ある意味、それがまた満月動物園という劇集団の自己完結的耽美世界を起点とする良さであるとともに、ここのような寺院空間における「アジール」(避難所)といての特質にうまく響き合っているという見方も可能だとコモンズ企画のあれこれを教えてもらいつつ考えた。



(小暮宣雄・京都橘大学教授)

※本レポートは承諾を得て、小暮先生のブログ「【こぐれ日乗】∽アーツマネジメントж文化政策 § 京都橘大学◎都市環境デザイン学科」の投稿から、その一部を転載させていただきました。

観劇レポート【1/14:満月動物園『太陽物語』】

満月動物園 第壱拾八夜
『太陽物語』
演出・脚本/戒田竜治
@シアトリカル應典院

チラシの裏には、とても魅力的なあらすじが書かれている。
“シセツ”で育った私たちの、誰かが死んだ時には自分たちでお葬式をしよう。
いつまでも“カゾク”でいるための約束。
その時は考えていたよりもずっと早くやってきた。
この通りの会話劇があったとしても何の不思議もない。
ところが冒頭から血しぶきが上がり、全身を真っ赤に染めてゆく女のモノローグから始まる。

やはり満月動物園だ。
ステキな会話劇を思わせるチラシのあらすじは、どんどんステキなストーリーから離れだし、おどろおどろしい物語へと変貌していく。
孤児院と思われたシセツは、クローン人間の実験用施設であり、家族のように接していたシセツの仲間たちは、同じ遺伝子を持つ自分自身だった。
かつて数十名の自分自身が殺し合い、最も人格の離れた5人が生き残った。
やがてその中の一人は、偶然か必然か、オリジナルの自分自身と出会い、当人同士も理解不能のまま殺されてしまう。

お葬式と言いながら、どこか愉しげな仲間たちの動的なシーンと、刑事に取調べを受けるクローンの元となったオリジナルの女性の静的なシーンが、意図的にコントラストを際立たせ、静と動の繰り返しが徐々に融和して行く構成で、いつもの公演では無くても良いのでは(失礼!)と思える映像も、今回は作品に上手く溶け込み、良い効果を生み出している。
中盤からミステリー色が強くなるが、決してストーリーを見せたい訳ではない。
誰もが自分を自分たらしめるために、自分の中のもう一人の、或いは複数の自分自身を殺して来た。
いくつかの選択肢を諦め、無かったことにして来た。
だが本当は、今も心の奥底に隠れながら、密やかに暮らしているのかも知れない。
これは、今も誰しもの中にひっそりと棲む、自分自身と向き合う物語である。
それを解放し、内から外に、日の当たる場所に、今一度解き放つ物語なのだ。
文頭におどろおどろしいと書いたが、決してそんなことはない。
とてもステキな物語だ。
わたし(たち)の、わたし(たち)による、わたし(たち)のための鎮魂歌。
『太陽物語』
タイトルに込められ思いが、あとから程良くじんと来る。

(塚本修・CQ)



チンプンカンプンもまた楽し【1/13:耕読会in應典院のレポート】

チンプンカンプンもまた楽し

 『システム理論入門―ニコラス・ルーマン講義録【1】』(新泉社)なる本を目にした、あるいは手にした、もっと言えば持っている、という人はどれぐらいいらっしゃるだろうか。おそらく社会学を専攻している学生や研究者ぐらいなのではないでしょうか。
 とにかく、この本は重い。400ページ以上もあるハードカバーだから、物理的に重いのは当たり前です。そして、内容は社会学者のルーマンさんが大学でおこなった講義だけあって、理論的で重いのです。本当に難解で難解で、何回読んでも私にはチンプンカンプンなのです。本の帯には、「ルーマン本人による徹底的解説」と明記されているにもかかわらず、この解説の解説をしてくれと叫びたくなります。だから、私は昨年4月から開催されているこの耕読会に出席しています。
 あまりにも抽象的なので、みんなで例えをたっぷり使って考えていきます。そうすると、一挙に身近なこととして理解が進みます。今回は、メーカーが想定していない使用方法をした場合が例となりました。地震が来た瞬間、使っていたパソコンで思わず頭を守るという行為を当てはめてみました。このようなちょっとしたヒントは、進行役の山口悦子さんを中心に、参加者の言葉がきっかけとなります。参加者は、興味関心も、日々たずさわっていることも、知識の量も、参加の目的も異なります。だからこそ、一緒に社会学の本を読んで言葉を重ねることからできる発見が多いのです。ひとりでは投げ出してしまうような本でも一緒に読むからこそ、継続して読み進めることができます。
 ところで、「トリビアルな機械(マシン)」と「非トリビアルな機械(マシン)」という言葉が、読み進めたページの中にありました。数年前に「トリビアの泉」というTV番組がありましたが、トリビアルとはとるに足りない、くだらない雑学という意味です。その否定形が非トリビアルなので、とるに足りなくはないという二重否定の意味を持ちます。そしてトリビアルな機械は予想できる結果がでるものであり、非トリビアルな機械からは予測不可能な結果が生まれるものです。私は、耕読会はまさに非トリビアルな機械のひとつだと思います。
 この耕読会は、コモンズフェスタ以外の期間も毎月開催されています。難しい本をみんなで一緒に読むという時間を経験してみませんか。結局本の内容はあまり理解できなかった、そんな結果でもいいと思います。何かの時に、日常生活の中で、ふっと深まる何かがきっとあると思います。

(小野千佐子・株式会社ティプア代表)