ことばくよう>衣斐隆浩さんのレポート

コモンズフェスタ2009/2010「U35の実力」、モニターレポートシリーズ、「ことばくよう」について、花村周寛さんから呼びかけられて遠方(東海地方)より参加いただいた、衣斐隆浩さんに寄せて頂きました。




應典院 ことばくよう に参加して

先日は大変貴重な会に参加させていただき、ありがとうございました。
震災のことについて、いろんなことを考えさせていただき、
長年抱いていた悩みも、解きほぐすことができました。
感謝の気持ちを込めて、私のこれまでの経験を踏まえながら書いてみました。
長文で恐縮ですが、ご一読いただければ幸いです。

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私は神戸から100キロ以上離れた場所で震災の日を迎えました。
私の住む地域では、震度5を記録するも、街は無傷で、誰一人傷を負わなかったために、震災を特別なものとして感じることはありませんでした。ブラウン管の向こうから流れる、廃墟と化した神戸の街は、どこか嘘っぽく映りました。別の遠い世界で起こっているような気がしましたし、フィクションドラマを見ているような感じがしました。
そんな私が震災のことに興味を持ったのは、大学一回に出会ったAさんの影響です。Aさんは芦屋で震災を経験し、2003年の1月17日、悲しそうな目で震災のテレビを見ていました。その寂しそうな背中に私は何も声をかけてあげることができませんでした。じっとその姿を見つめることしかできない私でした。

後から知ることになりましたが、Aさんの家は、根元から崩壊した、あの阪神高速神戸線の辺りにあったそうです。Aさんは震災について多くを語りはしませんでしたが、兵庫県が正式発表している震災の被害マップから、住んでいた家が全壊したことは容易に推定できました。多くの人が犠牲になるのを目の当たりにし、不便な避難所で長時間過ごしたことと思います。それは、小学5年生という多感な時期にはあまりにも酷な体験であったことでしょう。同じ時期に私はなんてのんびりした生活をしていたのか、それを考えると途端に胸が引き裂かれるような気持ちになりました。

その後、Aさんの家がある芦屋の街を歩いてみました。阪急芦屋川駅を降りて川沿いに南下すると、かつて海岸線のあった防波堤に辿り着きます。そこにはウォール・ペインティングといって、300メートルにもわたり市民の描いた絵が壁に描かれていました。震災後、復興を願う市民がそれぞれの思いを壁に表現していったのですね。小さな子どもたちが精一杯描いた力強い作品には胸を打たれましたし、おじいちゃんが描いたであろう、孫の笑顔には涙が出そうになりました。どの作品にも、描く人の魂が込められていました。ウォール・ペインティングを通して、人と人がつながり合っていくのを感じました。「人間ってあったかいなあ」と素直に思いました。

今まで震災に対し無関心でいられた自分が恥ずかしくなり、震災と向き合うことにしました。自己満足であったのかもしれませんが、時間をかけて取り組む問題であるように思えたのです。
大学では人間科学部の渥美先生が震災ボランティアの研究をされていて、講義をこっそり聴きに行ったり、先生のゼミで研究している友人に話を聞いたりしました。時間ができれば図書館まで行き、神戸新聞の過去の文献を調べることもありました。震災に関する知識やデータは、この7年間で驚くほど増え、被災地がどれほどひどい打撃を受けたのか知ることができました。

しかし、その一方で、どれほど知識が増えたとしても、実際に被災された人の気持ちを窺い知ることはできないのではないかと感じるようにもなりました。
私は山手から見る神戸の街並みが好きで、この風景を撮りに週末神戸まで出かけることが多くなりましたが、神戸の街の至るところにある慰霊碑を見るにつけ、私の見る神戸の街は震災後の神戸であって、震災前の神戸ではないということが心のどこかで引っかかっていました。目の前に広がっているのは、偽物の神戸である。本物の神戸は1995年に崩れてしまって、私は永遠に本物の神戸を知ることなくこれから生きていくことになる。偽物と本物。そんなことを考えると、頭が混乱してしまいました。

被災するという経験を(神戸の人と)共有していない自分が、これから何をすべきなのか分からなくなってしまっていました。被災することがそんなに大事なのか、それならいっそのこと神戸で生まれていたら周りから認めてもらえたのかもしれない。そう思うようになっていました。

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そんなとき、應典院で開催されているコモンズフェスタ2010を知りました。大学時代からお世話になっていた花村先生は、他分野にわたり活躍され、一貫して社会の問題をどうやって解決していくか考えておられました。今回の震災の企画についても、きっと素晴らしいものになるに違いないと思いました。震災時に就職していなかった世代が、分野や地域を越え、15年経った震災をどのように捉えるか、という視点は今までにないものでした。震災とどう向き合っていくか、ずっと考えてきた私にとって、これほどの機会はないと思いました。

小雨が降る中、辿り着いた應典院は、およそお寺とは思えない建物でした。コンクリート打ちっぱなしの現代的建築は、お坊さんが本当にいるのか疑ってしまいたくなるような印象でした。震災とアートとの関係は、入口から始まっていたように思います。
1階の花村先生の作品を見た後で、被災者の方から寄せられた手紙を見ようと、2階に上っていきますが、階段ももちろんコンクリート。コツコツと歩く足音が響きます。階段にお地蔵さんが置かれてあったことと、左手に墓地が広がっていたことから、ようやくここがお寺であることを認識することができました。

階上にある気づきの広場には緑の芝生が広がり、その上には花村先生の作成したトランスパブリックが多数掲げられていました。が、肝心の手紙らしきものはどこにも見当たりません。もしや、もう供養が終わったのでは、と焦る私は、山口さんのおかげで、手紙が気づきの広場のあちこちに埋もれていることを知ることができました。
街のあちこちに震災で心を痛めた人々の日常の溢れる思いが埋もれていて、広場が街を自然なままに表現していることに、はっとさせられました。瓶の中にある手紙、壁にくくりつけられた手紙、自転車のかごに入れられた手紙、本に挟まっている手紙。注意深く見ると、たくさんの手紙があることに気付きました。私がたくさんの手紙を見落としてしまったのは、そんなふうに実際の街を大雑把に眺めていたからなのかもしれません。特別なところではなく、身近なところにちゃんと震災のヒントは存在しているのかもしれない、と考えさせられました。

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たくさんの手紙に胸を打たれました。
失った人の悲しみ、失っていない人の悲しみ、今後どうやって生きていくのかという悩み。気づきの広場には、震災で生まれた生き場のないいろんな思いが溢れていて、それらに接するたびに、やりきれない思いになりました。

私はその中で、京都で震災を迎えた女性の方の手紙を選びました。
ぐらぐら揺れていたのは、地震の方ではなくて、私自身の心の方でした。震災に対して何もできず、間延びしながら生きていました。という手紙は、何もできずに今後の生き方を模索しているのが私の心境と似ているように感じたからです。
普段書く何十倍も速度を緩め、文字を写し取っていきましたが、書いた人の字の(止めや撥ねといった)特徴から、彼女が文章中でどんな気持ちになって書いたのか想像しました。人が紙という媒体にアナログで書く(パソコンによる出力ではなく)行為は、思いをのせる行為で、それをトレースすることは、その人の思いに耳を傾け、真摯に受けとめることだと気付きました。忠実に、私情を挟むことなく人の思いをしっかりと引き取ることで、書いた人の思いはちゃんと供養されるのだと解釈することができました。

トレースした後、参加者の間で手紙を読み合い、その中で一つだけ単語を広辞苑で調べましたが、一つの言葉にたくさんの意味があることに驚かされました。当たり前のことですが、多義語の組み合わせで文章は成り立っています。それでも意味を履き違えることなく読めるのは、書く人が文章中で意味を限定しているからですね。手紙をしっかり読み取ることは、書いた人の思いを丁寧に読み解く行為に他ならなかったのです。

せっかく書いた手紙をなぜ燃やしてしまうのか。お寺に来るまでそんなことを考えていた私は、しかし、気持ちが穏やかになっていくことを感じていました。京都の女性の思いを引き取った私は、しっかり成仏させてあげようと思いました。彼女の思いは私の心に生きています。それは、私が祖父の葬式で感じた、寂しいけれどすっきりした、あの不思議な経験に似ていました。

お焼香の後、手紙を燃やします。ごうごうと火は燃え盛り、私は一瞬手紙を入れるのをためらいました。きっと成仏されるには大きなエネルギーが必要なのでしょう。その力に圧倒されました。手紙はあっという間に黒く小さくなっていき、彼女の思いは無事に供養されました。

参加者の方との歓談のとき、私は最後、山口さんと岩淵さんに救われました。私はずっと自分のことを震災の当事者でないと決め込んでいましたが、そんなことはない、あの1995年1月17日、テレビで神戸のことを聞いて少なからず心を痛めたはず、それならば震災の共有体験者として、そのとき世界に自分が存在していたと言えるのではないか、と声をかけていただいたのです。仏教ではそもそも、無縁であることはありえないと考えるそうです。無関心であった私も、震災についてこれから自分なりの供養ができるのではないか、と考えることができました。ありがとうございました。

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仏教とアート、というとても相容れることのなさそうな両者が、供養というストーリーでつながっていたことに、ただただ驚きました。街に埋もれているたくさんの人の思い。それを掘り起こし、解きほぐし、その思いを変色させることなく供養し、また土に返してあげること。人の一生とまるで同じですね。人は亡くなっても、他の多くの人の心の中で生き続けますが、震災の思いも、きっと世代を越え、生き続けていくのだと思います。アートがその手助けをしてくれたように、私は感じます。その意味で、小さな女の子が二人、あの場で大人たちの話を熱心に聞いてくれたのは、(大人たちは難しいことをしていると思われるかもしれませんが)経験として貴重であったと思います。それは、彼女たちにとっても貴重であったのと同時に、震災を伝える社会の立場から見ても大変に貴重であったのではないでしょうか。

震災についてできることは、こうやっていろんな思いを汲み取っていくことではないかと思います。確かに、神戸は変わりました。震災前の神戸を見たことがないので、変わったと表現するのもおかしいと思いますが、しかし、いくら変わったとはいえ、多くの人の思いがまだ生きています。今の神戸も充分神戸であって、そこに、先の偽物本物といった概念は出てこないはずです。神戸を愛する者として、そして、神戸で生活する人たちを愛する者として、神戸の身近にある、いろんな人々の思いに耳を傾けていけるような、そんな人間でありたいと思います。

そして、自分自身が、生きることに対して前向きでありたいですね。何事もなく毎年1月17日を迎えることができるのは、奇跡です。自分で人生を選び取っているようで、やはり生かされているのですね。感謝しながらこれから生きていこうと思います。


最後になりましたが、今回の参加者の方とも何かしらつながっていけたら、と思います。共に過ごしたあの経験はとても大きいと感じています。さらに次の15年、あるいはその先の30年、震災の人の思いを伝承していけることができたらいいなあと思います。

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