初めてうかがう應典院は、今回のフェスタの一環の展示で花村周寛さんによって標識が張り巡らされており、“荘厳”された不思議な空間でした。入り口にあるスピーカーからは、もわもわとしたノイズがかった弦の音が響いてきます。
工事現場のような黄色と黒のテープに誘われながら空間を進んでいくと、公園のような広場の一角で中川さんが演奏していました。(入り口のスピーカーは、彼が出している音を拾っていたようです。)その音色は、誰かに聞かせるためのきれいな音や楽しげな音というよりも、むしろ“音楽”的とされるような音から逃れていく自己探求の修行のようでした。
私がうかがったときには、中川さんはもう既に半日近く演奏されていたところで、音がその場に馴染んでいるような、公園と音色がぴったりくっついてしまったかのような印象を受けました。この人工芝の公園も花村さんが仕立てられたもので、花村さんが主催されている「エクソダス」のこともその場に展示された資料から知ることができました。それによると「エクソダス」は、日常社会から少しだけ逸脱した行為を“あえて”やってみて、公共空間の中にある暗黙のルールを試す集団なのだそうです。その傍らで、押し付けがましい説明を語ることもなく、周り(社会)に目もくれず音の自己探求を延々と(11時間も!)続けている中川さんと「エクソダス」の試みは、どこか繋がっているような気がしました。
“普通”というものと比べると、一見それらは、理解できない異質な行為で、異質なものかもしれません。理解できないからと排除することもできるけれど、健康的なのは、異質なものも当たり前にそこにあるものとして容認すること(理解することが必要なのではなく)ではないかなとぼんやりと感じました。日常と非日常の交差するお寺でおこなわれることで、説得力を持つ場が出現していたように思います。音楽を聞きに来たのだけど、少しだけ社会勉強をしたような気持ちになりました。
(はが美智子)
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