コモンズフェスタ2009/2010「U35の実力」、モニターレポートシリーズ、今回は初日に行われた中川裕貴さんのパフォーマンス「editing body around the sounds」について、藤田和宏さんに寄せて頂きました。
editing body around the soundsでの発見と期待
藤田和宏
私が到着した際には、何も行われていませんでした。少なくとも最初の時点で私の目にはそう映りました。初めて訪れた應典院のおそらくパフォーマンスが行われるだろう場所には、ただ「気付きの広場」という名の人工芝の公園があり、何人かがくつろいでいただけでした。しかしこれさえもが実はパフォーマンスでした。
サウンドアーティスト・中川裕貴さんによる「editing body around the sounds」は、11時間連続のパフォーマンスで、チェロの演奏が軸ではあるものの、その音は普段誰もが聴くような心地よい音楽ではなく、無調性でありむしろノイズに近いものをエフェクターに通してミニマル的に展開し、これに應典院の外の音をマイクで集音して、チェロ演奏と電気的に合成するというものでした。音楽を奏でるために存在するチェロがノイズに近い音を、屋外の車の音や風の音などそれこそノイズと呼ぶにふさわしい音と合成することで、最早私たちの常識とは全くかけ離れたものを形成していました。しかし同時にそのノイズをリズミックに加工することで、ノイズと音楽という一見全くかけ離れた音の世界が互いに肉迫しているような奇妙な体験をすることになりました。つまり、ノイズという無秩序がリズムという秩序によって意味があるものに知覚されるという、意味の倒錯と体の持つ不思議を体感することになったのです。特に終演間近、用意されていた目覚まし時計が鳴り始めた時、私は思わず止めなければと反射的に思ったのですが、音が速くなるにつれて中川さんのチェロと刺激的なアンサンブルを始めたのには驚きました。まさしく日常の非日常化が目の前で起こっていることに、大変な興奮を覚えたのです。
しかしこの企画で更に注目すべきは、この演奏が11時間の間のいつ行われるかが中川さんの気分次第で、他の誰にも知りようがないということでした。演奏していない時間までもが実はパフォーマンスの中に含まれているという、パフォーマンスの体裁や定義に問いを投げかける斬新な試みでした。
また、應典院の本堂にてイベントがある際には、チェロの演奏を止めて、チェロやメトロノームや目覚まし時計など、日常的で、本来固有の目的を持つ物たちを使って影絵のオブジェを作っておられました。これらはそれぞれ音楽を奏でる、一定リズムを刻む、時刻を知らせる、人を起こすなどの目的を持っていますが、この場ではそれらは全てを捨て去って、光のオブジェとしての新しい目的を与えられていました。日常に溢れている物に別の側面からの価値が与えられる可能性を感じさせられ、日常を豊かに見つめ直すための導入として、とても興味深いものがありました。
この企画の中で、私にとって特に興味深かったのは、これらのパフォーマンスが観る者、聴く者にどう認識されているのかということでした。「公園の風景と完全に同化し、いつ演奏が行われるかわからないチェロ演奏」と、「日常的な物が光に照らされて影絵を作っている」という状況は、見方を変えれば、「どこかのチェリストが公園でやっているきまぐれな練習」や「ただ夜の照明に日常的な物が照らし出されて影が出来ている」とも受け取ることが出来ます。つまり、観る者次第でこれらは立派なパフォーマンスと認識されたり、あるいは、ありふれた日常の光景と認識される可能性もあるのだと感じたのです。本堂で催されていたトーク・コンピレーション「みんなが見つめている風景を共有するためのパーティ」の休憩時間に中川さんのご紹介があり、その時影絵のパフォーマンスをされていましたが、多くの方が周りに集まって影絵をじっくり眺めている光景は、常識的な公園という場所ではまず見かけないものでした。もし現実の公園で何の断りもなしに誰かが日常ありふれた物で影絵を始めたら、果たしてあの休憩時間のように通路をふさぐほどの人だかりが出来たでしょうか。そう考えると、パフォーマンスの成立条件とは何だろうと考えされられます。通りすがりの人が、公共の空間においてパフォーマンスをパフォーマンスと認識するのはどこからか、あるいは、提供する側とされる側が互いに満足するようなパフォーマンスにおいて、両者の間に成り立っていることとは何か。例えば私はアマチュア管弦楽団に所属しておりますが、私たちのような団体は演奏会用ホールという閉じた場所において、演奏会を催す側とホールに足を運ぶお客様との間で、互いに空間を共有しようとする積極的な姿勢を基盤に据えてパフォーマンスを成立させています。このような形態を常と考えてきた私にとっては、普段はあまり深く考えたことがないこれらのこと、社会の中で習慣的に決まってしまっているパフォーマンスの在り方について、大いに立ち止まって考えさせられるものがありました。
屋内に引き込まれた屋外の音とノイジーでリズミックなアンサンブルをするチェロ、屋内の中に作られた公園という「公共」空間、その公園で繰り広げられるどこからがパフォーマンスでどこからが私的な趣味なのかの区別も曖昧になる11時間に及ぶ断続的演奏パフォーマンス。あらゆるものが倒錯した中で最後に残って明らかになる「ウチとソト」の新しい定義、「公共」の持つ意味、「パフォーマンスの成立条件」とは何なのか。おそらく社会全体に定着する明確な定義は未だ存在せず、その解体と分析を行っている最中なのでしょうが、これらの企画が新たな価値やムーヴメントを生み出す原動力であるならば、きっとこれから楽しいことになるだろうと感じました。何が起こるのか今後に期待できる、とても楽しい一日でした。
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